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2011年4月

2011年4月 7日 (木)

かたくりの花も咲き始める

かたくりの花も咲き始める

我が家の山に自生する2~3個持ち帰ったかたくりの球根。例年より遅めではあるが、花が咲き始め、そよそよと揺れている。

持ち歩いている携帯電話で写真を撮った、俳句も一句。

「手植えたる 庭のかたくり 開き初む」 愛子

支援物資に越前漆器とボーノ夢菓房のごままんじゅう

支援物資に越前漆器と夢ボーノごままんじゅう

「春の野を 支援物資の 車発つ」  愛子

お椀3,500個、皿2,200個、箸3,000膳など越前漆器協同組合の関係企業や組合提供の、また農業公社が呼びかけた野菜類や菓子職人グループボーノ夢菓房が提供のごままんじゅうを、これまで給水業務の支援で、つながりのできた岩手県大船渡市にむけ、副市長以下職員3人がトラックで出発。

なんといっても平成16年の福井豪雨で、未曾有の被害に遭遇した越前漆器の産地の当地では、そのときの「お返しを」と支援の心が高まっている。

2011年4月 6日 (水)

まなべの館に四季の花

まなべの館に四季の花

まなべの館春爛漫リレー展Ⅰ玲風会春季展~四季の花~が、4月1日から17日まで開催されている。 6日に、まなべの館に依らせていただいた。

受付に、なんと久しぶりにお会いできた友達が座っておられ、グループホームのまちなかにの必要性など話し込んできた。

市民の望んでおられるまちづくり・正しい状況把握と、ぶれない判断で先を見通した大きな構想のを描きながら、行政のお金は活かしていかなければならない。がんばらにゃ。

春、入学式

春

4月6日、午前中、福井豪雨の年に生まれた子たち32人の新一年生の河和田小学校入学式(お友達をたくさん作って、沢山の本を読んで、大きな夢を持てる子に成長していってください)。

午後からは東陽中学校の入学式。

校長先生の式辞には、宮沢賢治の没後見つかった「雨ニモマケズ」の引用があった。

雨ニモマケズ

風ニモマケズ

雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ丈夫ナカラダヲモチ

慾ハナク決シテ瞋ラズ

イツモシヅカニワラッテヰル

一日ニ玄米四合ト味噌ト少シノ野菜ヲタベ

アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ

ヨクミキキシワカリソシテワスレズ

野原ノ松ノ林ノノ小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ

東ニ病気ノコドモアレバ行ッテ看病シテヤリ

西ニツカレタ母アレバ行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ

南ニ死ニサウナ人アレバ行ッテ

コハガラナクテモイヽトイヒ

北ニケンクヮヤソショウガアレバツマラナイカラヤメロトイ

ヒヒドリノトキハナミダヲナガシ

サムサノナツハオロオロアルキ

ミンナニデクノボートヨバレ

ホメラレモセズクニモサレズサウイフモノニワタシハナリタイ

非被災地の私たちは、自粛するばかりでなく、平常心で普段の生活のなから、ちょっと無理をして、継続的に支援を行って生きたいと思う。

2011年4月 2日 (土)

福井県女性議員の会 

昨年まで、鯖江市議会議員の木村は、福井県女性議員の会の会長を努めさせていただいてきた。これまで、福井県議会議員に女性議員がいないことで何とか県政議場に送りたいと思ってきた。今回の県議会議員選挙で、坂井市で1人、福井市で2人、越前市で1人の立候補。

男女平等、共同参画社会にあって、これまで男性が中心に政治の場面はがんばってきていただいてきたが、女性が加わることで、安心安全な暮らしに密着したまちづくりに、更に大きな進展があるのではないだろうか・・。

東北東関東大地震があり、被害の大きさに驚愕、1945年以来の国土立て直しのような状況ではないだろうか。出産を経験しているお母さん、女性の粘り強い縁の下の力持ちの力を、今こそ政治の場でも活かさせてもらう時代だと思う。

世の女性たち、がんばりましょう。われらの仲間を地方政治の場に送りましょう。世の男性の皆様、われらの思いに力を貸してください。

さばえ菜花、道路わきに咲き始める

さばえ菜花、道路わきに咲き始める

中河地区の高速道路付近の菜花が、短い背なのに咲き始めたと思っていたら、河和田のバイパス通りも菜花がちらほら。

地震災害復興チャリーティイベント「さばえ菜花祭り」は、4月16日17日と日野川堤防沿いで開かれる。

南三陸町長清水、小原さんの活躍

三月15日、夜8時ころ南三陸町の小原さん(カメラマン)と言う若い青年から、出先で会議をしていたところ、マナーモードにしていた携帯電話に電話が入った。

南三陸町の長清水という町が孤立して80人が岩場の民宿に避難しているが、2次災害が心配なので、みんなまとまって避難をしたい。ついては、近隣では避難場所の確保はもう望めないので、福井県鯖江市の木村のところに頼って「助けてほしい」と言う内容。

さあそれから忙しかった。地震後すでに12日の日に、「木村さん避難家族、受けいれるるよ。友達も同じように考えている人が5組ほどあるよ」と、すでにおっしゃられていた方があったので、役所にそういう受け入れ対応の窓口をと、要望しておいた。 今回全く知らない方からの電話だけど、だいこん舎さんの南さんの紹介で、木村に連絡してきているということなので、地元の住民グループのネットワーク(80人まとまって受け入れてあげたいと思い)と役所の中を、相談して歩き、受け皿つくりに走り回った。

この間、4~5回ほどの携帯電話、メール等のやり取りを小原さんとしていたが、南三陸町として集団避難場所の確立が整い、そのところで60人が避難を決められたので、木村のとこまでは避難していかなくてもよくなったと、連絡を3月31日、もらった。そのうち寝袋持って小原さんとの携帯電話だけでなく、現地まで行かなければならないかなとも考えていたが・・ 。小原さんとのやり取りで、まだ受け入れようというお気持ちには変わりないかとの言葉もあったので、「もちろんお顔も知らない小原さんだけれど、避難家族を受け入れさせていただくよと思っておられる方の気持ちは変わりないです。いつでもそのときがくればどうぞ、お待ちしています。体気をつけてがんばってください」と、言葉を交わした。

その小原さんのレポートを、インターネット上で見つけた。以下そのレポート

南三陸町長清水(ながしず)。南三陸町の中心部志津川から通常であれば30分程度南に車を走らせると見えてくる人口100人程度の小さな集落だ。岩の割れ目から朝日を拝む事の出来る観光名所「神割崎」が目と鼻の先にある。
内海の為、普段の波はおだやかだが、今回の津波で約35軒あった家屋のうち2軒以外は人が住めない状況にまで破壊された。・・・
KAZUMA OBARA

昨日から2日間、親友の地元である南三陸町志津川を取材した。
港から集落まで100メートルもないこの地域は2軒の家屋を残して他は全て流された。
この日、捜索の為に自衛隊が入り、1名の行方不明者が遺体となって発見された。
生まれ故郷を見た親友は泣き崩れた

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