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2012年7月23日 (月)

相馬市を研修して

相馬市松浦海岸

相馬市の海岸地帯、「3・11」で海に流されたままを物語る。冷蔵・冷凍庫だった、コンクリートの固まりも傾いて放置されたまま。

仮設の魚加工場に案内していただく。

まだまだ海に船を出して漁業を再開すること、魚問屋も仲買も無理のよう・・。

それでも何かしなければ、と始められたNPO法人はらがま朝市クラブ、理事長の高橋永真さんから現状についての話をお聞きする。海の影響は大きく、150メートル以上の水深、50km沖に出かけることの出来る20トンクラスの200艘あった船は、120艘になってしまっていて、操業も困難な状況。テレビなどで水揚げがあったなどとニュースが流れているのは1回きりのこと、さわりのことであり、本当の中身は報道されていないし、本格的な漁業再開には至っていない。本格的に再開をできるときのために、加工の研究や技術を保持するため、静岡県焼津港などからの手にはいる材料で、老人ホームや養護施設などの魚コロッケを作っているところと紹介していただく。

味見もさせていただき、「おいしかった」。

高橋理事長は、塩辛や鯖の塩麹づけの加工などを行っておられていて、特に麹菌は内部被爆にいいということで、いろいろな工夫をしながら、安心安全でおいしい魚加工品の提供に努められている。

船を作っておられる造船所は作業をしておられ、少しずつ復旧復興も始まっているのかな、と感じられる。

南相馬市の小高地区、数日前に避難解除になったばかりの所に足を運ばさせてもらったが、この厳重な警察の車など配備された検問所が設けられ、通行証が無ければ、地区の中に入れていただけないことが分かった。

田んぼは当時のまま、地震がきて、津波が押し寄せ、放射能が吹いてきて避難、除染もままならない、歴史が止まったままの南相馬市近く。

今回、現地の案内などでお世話になった相馬市の渡辺義夫さんのお宅。渡辺さんは地震で相馬市のアリーナの避難所でいち早くリーダー格を勤められ、相馬報徳社の副会長を勤められている。かつては同じ相馬藩だった相馬市、南相馬市は勿論、東北のほうまで被災地一円、ネットワークして立ち上がろうと尽力されている。

玄関1メートル以上の津波が押し寄せてきている。玄関に瓦礫がふさがったので、避難中に泥棒に入られなくて棲んだとか。隣近所は、バールでこじあけられして、金庫なども被害に遭われている。マスコミで、外国から「秩序が保たれている」などと評価されていたが、大変な混乱の状況などは、情報として流されていないのが真実だったとか。

7月9日午後から10日午前中と、渡辺さんに、「3・11」当時そのままのところや復旧が進み、復興に立ち上がろうとされている現場などをくまなく案内していただいたが、地震、津波は、これまでも何度か出くわし、そのたびに我々は立ち直ってきたが、原発・放射能の被害だけは、日本人、世界中が前人未到のことで、なすすべが無いという憤りを吐露されたことに深く感銘を覚えました。

また、今後「命の水プロジェクト」を立ち上げようとされていることもお聞きしました。母乳から放射能が検出され、母乳も安心でなくなり、ミルクに変えようと思っても、放射能濃度が高くなっていると考えられる浄水場の地下水を、数字データではなく、「大丈夫です」とだけ行政が言っても信じられない。そこで、今度は、今後10年にわたって安心安全な水な命のプロジェクトを、運送会社さんとも連携して進めたい、と。

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